興味のある方へ…裏履歴書
大学まで
昭和和38年に神戸市の垂水区で生まれました。
小学校は霞ヶ丘小学校、3年生の時に明石に転居し、江井ヶ島小学校に通いました。 得意なことは走ることと野球、絵を描くこと(版画で賞をもらったことがある・・唯一の自慢)で、苦手はうんていでした。
中学、高校と地元の大久保中学校(今では考えられないマンモス校、1年13組だった)、 明石北高校(ウェートリフティングが授業であった:オリンピックの指導者もいた?)に通いました。
現役の時は、寮生活にあこがれ弘前大学を受けましたが、失敗、1年間かの有名な大道学園(予備校)に通いました。 この時の友人は皆医師になり各地で活躍?しています。 翌年1浪で香川医科大学(現香川大学医学部)に入り、1982年、讃岐人の仲間入りをしました。
医師になってから(麻酔・救急・ICU時代) 医師となったのは昭和63年、翌年の初めには昭和天皇崩御があり、昭和が終わりました。 今でこそ医学生は07卒とか西暦で卒年を表しますが、以前は昭和の年号で卒年を表していました。 学生時代は医師同士が「私は57卒」とか言っているのに憧れていました。ギリギリ間に合ったという感じです。 昭和64年は7日間しかなく、1年後輩は、卒業時は平成元年であり、平1とかちょっと格好悪い?(平1の先生ごめんなさい)。 そんな関係で、今でも年配の医師と話す際は「63卒です」なんて言っちゃったりしています。 卒年の話だけでこんなに幅取るな!と言われそうですが・・。
卒業後は母校の麻酔・救急医学講座に入局しました。一般的には就職ですね。
病院には色々な科があり、それぞれ医局という呼び方をすることが多く、そこに就職することを入局といいます。 麻酔、救急、ICU(集中治療)に8年間携わりました。 麻酔科時代には麻酔科の上司(特にT崎先生、S田先生に麻酔の基本のみならず物事の考え方、判断・決断の仕方を たたき込んでいただき大変感謝しております)、外科や整形外科のドクターに医師の基本を教えていただきました。 また、研修先の香川小児病院及び明石市立市民病院では、各科の先生方にかわいがってもらいました。
その後、麻酔指導医の資格も取りましたが、臨床の麻酔の限界、麻酔のメカニズム解明の限界を感じ、整形外科に転じました。